いわくららしさって
どの病院にも、その病院の文化というようなものがあると思います。
いわくらにも、いわくら文化といわれるものが、
たしかにあるような気がします。
それが何であるか?というはっきりしたものは分かりません。
いい部分もあれば、悪い部分もあるでしょうし
ある人にとってはいいと思う部分が、
別の人には耐えられないということだってあるかも知れません。
とにかくそこに何かが存在していることは確かであり
それはまた、人間なら誰でも持っている
普遍的かつ根源的なものであるような気もします。
答えは出るはずもないのですが
少し、つらつらと考えてみたいと思います。
いわくららしさというものをあらわすものとして
「自由」 とか 「人として」 という言葉がよく出てきます。
そう、
自由といえば、いわくらは制服が自由です。
一応決まった制服はあるのですが
私服でもOKなのです。
これには、訳があって
それは、「人として」ということと、実は切っても切り離せないのです。
白衣は「治療者」を表しますが
いわくらではスタッフが「治療者」として存在することに
ずっと疑問を感じてきました。
「治療する」人 対 「治療される」人
そこに、目に見えないけれどはっきり存在する権威とか差別意識
そういうものを捨て、
人の前につくさまざまな形容詞を取り払って
純粋に1人の人として、1人の人に出会い、向き合う
そこから関係が生じ、関係が発展していく中で
互いが変化したり成長したり
そういう相互作用こそが精神医療の原点ではないのか
それが、いわくらが私服OKである理由なのです。
今では、そこまで権威や差別というものを論じるほど
精神障害に対する偏見も強くなくなってきたかもしれません。
私服で働く職員も、ユニフォームを着る職員も
そこまで意識せずに働いています。
けれど、この
「治療者である前に1人の人として」
「患者である前に1人の人として」
ということは、これからも失わずにいたい気持ちです。
人として、ということは、それぞれ一人ひとりの存在を
ありのままに認めるということであります。
私服オンリーでも、ユニフォームオンリーでもなく
どちらでもOK
いろいろな人間の、いろいろな多様性を認める
それがいわくらの文化といわれるものの一つかもしれません。