人生はアンパンを探す旅
人生はまるで、
ふたつにちぎれたアンパンの
残り半分を探す旅のようだ。
この世に生まれた赤ん坊は
はじめ、お母さんと一体の存在。
それが、少しずつお母さんとの密着を離れ
自我が芽生え始めていく。
けれど子どもにすれば、
もともと母との一体がスタートだったので
母子分離で失った心の空間には
ぽっかりとしたさみしさがある。
つまり人は物心ついたときから
さみしさを伴って生きる存在なんだろう。
この寂しさは、
幼子が年老いて死ぬまでずっと、
そこにあり続ける。
そして、その寂しさを埋めるために
友達を作ったり、恋をしたり、何かに熱中したり、
あるいは、お酒やなにかの力を借りたりもするのだろう。
人生はまるで、
赤ん坊の時ふたつにちぎれたアンパンの
残り半分を探す旅のようだ。
寂しさのない人間はいない。
人は一人で生まれ一人で死んでいくといわれるけれど
人は母との一体に始まり、死ぬまでアンパンの残りを探し求める。
孤独とはそういうことなんじゃないか。
失くしたアンパンの半分は見つかるのだろうか?
いや、そもそもアンパンはどこかにあるのだろうか?
人はみなアンパン半分で生きている。
半分同士のアンパンが
出会ったり、離れたり、求めあったりするけれど
半分足す半分は1個にはならない。
なぜなら、相手の半分は相手のものであり
私の探している残り半分ではないからだ。
相手の半分と自分の半分を足しても
完全なるアンパンにはならない。
だから人は、なるべくたくさんのアンパンのかけらを
あちらこちらから分けてもらって
そのことに感謝をしながら暮らしているのかもしれない。
それでも絶対に埋まらない、
人生は少し欠けたアンパン。
だからみんなどこかで孤独を感じながら生きている。
欠けを埋めようとするのもいいけど
少しくらい欠けのあるアンパンの方が
あんこが染み出して、味があっていい。
孤独を避け、アンパンの残りを誰かに
埋めてもらおうと求める気持ちもわかる。
一方で、自分はアンパン半分なんだと知り
欠けた部分を認めつつ孤独とつきあっていく生き方もある。